
はじめまして。
メディアレトリバーのライターYAMです。
この夏からデジタルレトリバーのメンバーになりました。
今回はそんな私の昔話をさせてください。
ひらがなが書けない頃からの絵日記
広告関係の仕事をしている両親のもとに生まれた私。
実家には、幼稚園に入園した頃から書いていた(書かされていた?)絵日記が今でも残っています。
特別、教育熱心でもなかったはずの我が家ですが、文章を書くことだけは早くから教えてくれていたみたいです。
絵日記の最初のページは、まだひらがなも書けなかった幼い私が、母の下書きした文字を力強くなぞった「ようちえんにいったよ」の一言。
ページをめくるごとにひらがなは上達し、新しい日記帳に変わるとアニメを真似したキラキラの目の女の子のイラストが添えられるようになり、次第に関西人らしくオチまでつけるようになっていきました。
ウケることばかり考えていた学生時代
見出しだけ見るとお笑いを志していたかのようですが、そうではありません。
私は小中高と進んでも、まだ日記を書いていました。
作文も好きで、夏休みの読書感想文もまったく苦になりませんでした。
それなりに自信もありました。
ところが、高校1年生の頃、その自信は砕け散りました。
その年の夏休み、私は数学の宿題をやってもらう代わりに友達の読書感想文を請け負ったのです。
噂を聞きつけた、また別の友達にも頼まれ、結局合計で5人の読書感想文を書きました。
わざわざ筆跡や文体まで変えて。
夏休みが明けると、校内の広報誌に私が書いたすべての読書感想文が「佳作」として載っていました。
母に話すと「いっぱい書いて全部佳作なら、自分の分だけ一生懸命書いて入賞をめざしたら良かったのに」と笑われました。
周りからは感謝されたり「すごいやん」と言われたりして、少々天狗になっていたのですが、母の言葉を聞く前から伸びた鼻はポッキリと折れていました。
なぜなら入賞の作品が自分とはまったくレベルが違ったから。
教師や大人からウケる内容をそれっぽく書いていた私と、自分の言葉で自分の感想を美しい文章にまとめた入賞の彼ら。
悔しいというか、情けないというか、何とも味わったことのない感情になったことを覚えています。
自分の言葉を探し続けて
その後も日記は書き続け、大学時代には文章講座のようなものにも通いました。
そこでも、優秀賞は獲れても最優秀賞には届かない日々でした。
新卒でCM制作会社に入り、激務の果てに退職し、中途で広告制作会社に入り、勢いで独立した20代(この話もまたどこかで書けたら嬉しいです)。
それからフリーランスのライターとして何とかやってきた30代。
そして、今も私は「自分の言葉」を探し続けています。
SEO記事は苦手でした
SEO記事はそんな私が最も苦手だと思っていた分野。
これまでは広告や広報のライティングをすることが多く、意識的にSEO記事のライティングは避けて通ってきたのです。
それには、過去に他社でSEO記事を書いた時の苦い経験が影響しています。
指定されたキーワードを無理矢理にでもねじ込まなければならなかったこと、
クオリティを度外視して文字数を増やさなければいけなかったこと、
別サイトのコピペのような内容が推奨されていたこと、
おまけに予算が作業量に見合っていなかったこと…
単純に楽しくないし、読みにくい。
「これは一体誰のためのサイトなのだ?」と感じ、継続することはありませんでした。
でも、デジタルレトリバーでは、キーワードをしっかり入れていても、AIが導き出したリサーチ結果を正しく反映していても、私という人間の主観つまり「自分の言葉」が入っていないと校正が入ります。
「自分の色を出してもいいんだ」とホッとし、楽しく記事作成ができています。
AIライティングもまたこれまで触れてこなかった分野なので、新鮮で面白く感じています。
終わりに
まだまだSEOライターとしては駆け出しの身。
そのうえ、まだまだ高校生の頃に度肝を抜かれた同級生のような文章は書けません。
やっぱり「ウケ」を狙ってしまう自分がいます。
だからこそ、おそらく生涯続くであろう「自分の言葉探し」を続けながら、これからも多くの記事を書いていきたいです。
「自分の言葉」が誰かの心にまっすぐ届くように願って。
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