当時私はアパレル店員として豊洲で働いていました。2011年3月11日14時46分18秒に地震が起こったときは、地面が大きく揺れて立っていられないほどでした。
私はとっさに洋服を並べていたテーブル(棚)の下に隠れて、ずっと震えが止まらなかったことを今でもはっきり覚えています。
特に豊洲は埋立地なので、通常の地面よりも揺れが大きくなるようです。
大きな揺れの後にもたびたび起こる地震が恐ろしくて、次にいつ来るのかわからない恐怖さえ感じました。
職場はショッピングモールだったので、全員まずは屋上に上がってくださいとのアナウンスがあり、一緒に働いていたスタッフの女性と一緒に階段で屋上まで足を運びました。
屋上からは東京湾が見渡せるのですが、遠くに煙が上がっており、一瞬でこれはただごとではないと。
このときでしょうか?「帰宅難民」という言葉が認知されたのは。
私もそのうちの一人で、帰りはどうしようかと。
幸い、ブランドで働いていた先輩(あまり絡みはなかった)が豊洲に住んでいるということで、私とスタッフでお泊まりさせてもらえました。
ただ先輩の住んでいる部屋はタワマンで、ぜいぜいいいながら30階まで上がったことを覚えています。ここでタワマンに憧れがなくなったのはいうまでもありません。
私は現金なもので、震えがおさまり、少し気持ち的に余裕ができたときは、先輩がイケメンだったということもあり、違う意味でドキドキした記憶があります。
今思えば、あの状況で少しでも気持ちがほぐれる瞬間があったのは、むしろ救いでした。
翌日自分の家に帰ると、部屋の中が洗濯機でかき回されたのではないかというほど、悲惨なことになっていました。
改めて地震のすごさを痛感。当時テレビがなかったので、情報源は新聞でした。
多くの方が亡くなっていて、絶句したことを忘れません。
当時の様子が映像として使われることがありますよね。一般の方の投稿が多いのですが、もし2011年にSNSが当たり前になっていたら、震災の瞬間の動画を撮るために命を落としてしまう人もさらに増えたかもしれないと思うとゾッとします。
最近、NHKで「それからの、風の電話」という番組が放送されました。電話線がつながれていない電話ボックスに入って、亡くなった人に話しかけるという番組です。
つながっていない電話で、もう届かない相手に語りかける行為自体が、残された人にとっての大切な時間なのはわかっているのですが、嗚咽するほど泣いてしまい、途中でつらすぎて観られなくなりました。でも現実をしっかり受け止めるためにもう一度観るつもりです。
あの日の記憶は15年経っても薄れることはありません。でも、こうして振り返って言葉にできるのは、自分が生きているからこそ。毎年この日が来るたびに、そのことだけは忘れないでいようと思います。
